飯塚氏の手記よりー玉音放送、そしてー

日本国民の胸に様々な感情が去来した「玉音放送」。では当時ジャカルタにいた飯塚さんはどうであったか。


八月十五日(水)十一時三十分、突如軍司令部の将校たちは「正装に身を正して、尉官食堂に集合すべし」と命令を受ける。

ご本人の手記にはこう記述されている。

「やがて荘重な君ヶ代の調べが聞こえてきた。「一体何が始まったのだ。」思わず固唾を呑む。
 君ヶ代に続いて、陛下御自らの玉音放送が始まつたが、難しい日本語とひどい雑音で、御言葉は全く聞き取れない。」

「途切れ途切れの御声で、場内、悲痛の空気が漂い始めた。そして再び悲しい君ヶ代の曲て放送を終わった。」

「『シーン』と静まり帰つて、誰一人として声を出す者は無い。前列に並ぶ先輩上官達の目頭を押さえ、或いは啜り泣くを聞き、余の神国不敗の信念は脆くも崩れ去った。」


参謀自室では「我々は無傷である。南方軍だけでも戦うぞ。」と息巻く者、玉音放送を信じない者、動転する者、虚脱状態に陥る者、かれらを励まし、てきぱきと指示を出す者などがいたという。

その翌日、ジャカルタ市内では日本敗北の号外が配られ、現地人は独立を手に入れたことに歓喜していた。

しかし終戦したからといって、彼らの戦いはこれで終わりではなかった。日本軍は連合軍による武装解除まで、ジャワ全島の治安維持を命じられていたのである。部隊はこの後、植民地解放運動に巻き込まれていくのであった。