飯塚氏の手記よりー捕虜収容所での生活ー
さて収容所に到着した彼らは、以下のような種類の労働を強いられていた。
1.波止場における物資の荷揚げ作業
2.英印軍将校宿舎の掃除洗濯
3.旧日本軍の武器弾薬の処理
4.貨物船内からの物資の揚陸作業
5.倉庫内貨物の整理整頓
6.生鮮食品等の運搬
7.道路の補修清掃
8.野戦病院内の便所掃除等の難役
ちなみにこれはまだごく一部であり、そのほかにも多種多様な労働がそこには在ったという。そのため喜ばれる仕事も敬遠される仕事もあった。
「作業の中で最も喜ばれたのは、病院行きと将校宿舎行きであつた。軽い仕事の上に、可憐な白衣の天使と妖艶な女士官は目の保養に有難い。
之に反して、船内からの荷揚げ作業と道路補修作業は、最も嫌われた。前者には重労働があり、後者には現地人の軽侮の眼と罵詈雑言は付き纏つたのである。」
船内の荷揚げ作業はとにかく高温かつ無風であったため、「蒸し風呂に入ったようなもの」であった。休む暇もなく褌一丁だけで労働をしていたため、もはや汗を超えて塩の粉を吹く、と記述されている。弾薬の移送作業の最中にはあまりの暑さに雷管内の爆粉が自然燃焼を起こし、あやうく大爆発寸前になった……という、危険と隣り合わせの仕事内容も存在した。そんな過酷な状況でそれでも耐えられたのは、兵士たちにとって帰国という希望があったからである。収容所での生活に対して、飯塚さんも手記中でこう述べている。
「あの侮蔑に満ちた、どん底生活こそ、私の人生に於いて、最も得難い貴重な体験であつた」
「そして、困難な問題に遭遇する度に『地獄の船底で働いていた沖仲仕の辛さを思い出せ。』『原住民の嘲笑の中で働いた、道路作業の辛さを思い出せ。』と己の弱い心を鞭打つのであった。」
なお収容所内ではたびたび演芸会が行われており、心身の疲労を癒したという。