飯塚氏の手記よりーチモール島の飢餓ー



戦地、飢餓と言ってまず最初に思い浮かぶのが「白骨街道」であろう。補給が確保できない中、進攻作戦が強行され、食料も弾薬も足りなくなった結果、感染症や飢餓で多くの死人を出した、インパールでの作戦である。
さて、ここチモールでも飢餓に苦しんだとの記述がある。昭和二十年、チモール島の食糧事情は極度に悪化していった。

飯塚氏の手記から飢餓についての記述を抜粋させていただく。

「制空権、制海権を失った我が軍は、昭和十九年初頭から、大型輸送船による補給は不可能になり、30トンから100トンぐらいの機帆船による輸送に切り替えたが、之も逐次、敵機の餌食と化し、殆ど杜絶の状態になった」

そこで取った対策が
・兵士の米の摂取量を減らし、減らした分はジャゴン(とうもろこし)で補う
・とうもろこし、薩摩芋、南瓜、緑豆、タピオカ芋等の栽培(土地が痩せていたためうまく行かず)
・土民から水牛、鶏、豚、山羊の買い上げ

他にも魚を獲ったり貝を探したり野生の山羊や豚を捕獲したり、と工夫していたものの、全軍の補給には至らず、やがて蛇や猿、鰐、蜥蜴を口にするようになっていったという。

「戦局が悪化して食糧難に陥ると兵の体力は次第に低下し、栄養失調が続出した。栄養失調になると、『とり目』『持久力低下』『歩行に息切れ』『床擦れが生じやすい』『白髪』『心不全』の症状を呈し、マラリヤ、デング熱、アメーバ赤痢、A型パラチブス等に罹患した場合には、確実の死が待って居た。」