飯塚氏の手記よりーガラン島、そして復員ー


 
昭和二十一年四月の上旬、リバティ船により一同は無人島であるガラン島へと移送される。

「しかし、兵たちは『帰心、矢の如し。』無人島在住の不安はそっち除けで、歓呼を挙げて船に乗り込んだ。」
 
「三年前に、赤道を越えて前線に向かった時の感激は、筆舌に尽くし難かつた。そして、今や、慟哭の御聖断を奉じ、遥かの八重路から赤道に向かつて、逆コースを巡る運命にある。嗚呼、悲しい哉。万感、交々胸に至つて、止どまるを知らず。」


ガラン島は昭和二十年より開墾されてきた結果、数種類の作物が育てられていたものの、地面が痩せているため芳しくはなかったという。缶詰の配給も限度があり、主に漁獲によって日々食料を得ていたという。
ちなみにこの頃ガラン島には、歌手である藤山一郎さんが英印軍の慰問のため訪れていた。そのため直接は歌声を聞けなかったが、演芸場から聞こえる歌声を聞きしんみりと祖国の思い出に浸っていたとのことだ。

なお復員といっても、人数もいるため一度に全員が帰れるわけではない。第一に高齢の兵や傷病兵が乗船し、順番に帰国していった。飯塚さんは船を待ちながら新入りの兵士の面倒を見て過ごしていたが、ついに昭和二十一年五月二十日、内地帰還の日が訪れた。

九日後、船は広島県大竹港に到着。手記内にて、飯塚さんは当時をこう記している。

「チモール島及びジャワ島から持参した余の貴重な財産は次の四個のみである。
・チモール島で、大工の兵が作つてくれた白壇の箸及び箸箱
・ジョクジャカルタで購入した銀製シガレットケース
・ジャワにて手に入れた牛皮製紳士靴
・軍敵産管理部で求めたオートマチックの高級スイス時計 」


復員者収容所に向かい、退職金や飯盒などを支給される。

「次に待つていたのは防疫だ。衛生係によって協力殺虫剤「米国製DDT」が、頭上から振り掛けられる。全身が白一色になり、鼻と喉を刺激して、非道く咳込んだ。白い粉のお化け、見る影も無い哀れな軍隊。『嗚呼、我敗れたり。』と、つくづく痛感。
本日の此の惨めな敗北感を、私は終生忘れる事はできないと思う。」


そして飯塚さんは五月二十九日付けで予備役に編入され、召集を解除されたのであった。

「今日からは、命令を下す上官も無ければ、余の命令に従う部下も無い。何となく、開放感が全身に満ち溢れ、明日からの新生活に希望が湧く。」
 

しかしそう記した次に、帰路につく途中、電車に乗る乗客の波に流されてしまい、転倒したという。

「重心を失った私は一溜まりもない。見事、あおむけに転倒して、恰も亀がひっくり返った如く、手足をバタバタとさせる。嗚呼、無残!これぞ、元陸軍大尉の成れの果てとは。」
 
「しかも、車中の人々は沈黙を守り、一人として世に手を貸す者はいない。『嗚呼、情けなや、日本人の利己心!復員軍人に対する、冷たい態度、軽蔑の眼!』私は、祖国に足を踏み入れた直後に、敗北後の日本人の心が、如何に変わつたか、如何に荒んだかを、如実に知らされたのである。」
 
「そして、『之からの新しい人生は、決して甘くはないぞ。』と身の締まる思いに駆られつつ、漸く自力で立ち上がった。」
 

敗戦後に感じた無力感、虚脱感、悲しみ、敗北感、絶望、そしてある種の解放感、祖国に戻れる喜び、希望。
そんな思いを抱えた飯塚さんの手記はこう締めくくられていた。

「嗚呼、我れ再び故郷の土を踏むとは。唯々、感無量!敗戦、何処吹く風の平和な寒村を、私は一人黙々と歩く。 
出征の時も一人であった。 そして、今や、私を迎えてくれる人もいない。 
征くときは希望に燃えて居た。 しかし、今や、絶望の淵に在る。 
間もなく、黒川家の象徴である『門』が見える筈だ。」