飯塚氏の手記よりーインドネシヤ独立戦争ー
インドネシヤの独立運動は日々激しくなっていく。日本軍は武装解除前であったため、武器は潤沢であった。そのため現地の民に武器を譲渡するよう要請があったが、降伏義務を守らなくてはいけないこと、後々武器たちを連合軍に渡さなければいけないこと、それらは天皇の命令であり、背いてはならない………と拒否。しかし現地の民はそうも行かず、やがて兵器の略奪に発展していくのであった。命令と現地の民との間で板挟みになるという状況な上に、この問題解決の要である連合軍がなかなか来ない。
「早く進駐して日本軍の板挟み苦悩を速やかに解決して呉れ。と我々は叫ぶ。」(手記より)
そして昭和二十九月三十日、英印軍の上陸、ジャカルタ主要官庁の接収のち、ようやく武装解除、復員に取り掛かったという。
「我が日本軍は彼等の上陸前は、インドネシヤ独立軍の武器強奪の為、たくさんの犠牲者を出し、英印軍上陸後は、両軍の間で行われたジャワ独立運動の渦の中に巻き込まれて、多数の戦死者、獄死者、虐殺者を出す事になった。
終戦前のジャワは空襲も飢餓も無い極楽であったが、戦争が終わってから植民地解放戦争が始まり、我々は地獄の中で、ジャワの解放と繁栄に尽力する事になったのである。」
ジャワ独立軍による日本軍への兵器の強要、日本人の逮捕や監禁、財産の略奪などが行われていたという。その後スマラン警備にあたっていた「城戸部隊」の活躍により、治安は徐々に回復していった。しかしその戦闘により多くの犠牲が出たのであった。
そして十月の中旬になり、ようやく武装解除式が行われたのである。
「将校は将官以下一名宛、英軍大佐の前に出て武器を差し出す。
英国には騎士道の伝統があって、日本武士道を尊敬する。彼らは古武士的形式で厳粛に指揮を進め、私は先祖伝来の古刀「月山」、小型拳銃「コルト」、双眼鏡「マグマ」の三品を奉持して、涙の決別をした。青春の総べてを賭けた陸軍よ!さらば!」
しかし武装解除式の直後、すぐに復員できたというわけではなかった。スラバヤでインドネシヤ軍と交戦中であった英印軍であったが、ここで労働力不足という壁に当たってしまう。
「そこで、大橋大尉以下、将兵及び軍属八十名が指名されて、スラバヤ捕虜収容所に送られる事になった。勿論、私もその一人に選ばれたのである。」
ちなみに飯塚さんは当時チモールでの飢餓のせいで虫歯に苦しめられていたとのこと。